2008年1月17日木曜日

1995年1月17日午前5時46分 阪神・淡路大震災

 そうだ!
 今日は、あの震災の起こった日だった!
 そう気付いたのは、岡田先生のブログを読んでからだった。
 同期の命日は忘れないのに、幸い親族が誰も亡くならなかった震災は忘れてしまっていた。
 僕の中では、忘れてしまうぐらいの経験でしかなかったのかと振り返ってみた。

 当時、僕は、高校3年生。センター試験の翌日だった。

 住んでいたのは、加古川なので、震源地からやや距離があるが、
 ドーンと下から突き上げられて、体が浮き上がって目が覚めた。
 周りを見るとすごい揺れ。
 勉強机の揺れに驚いて、必至に、勉強机を押さえていた。
 当時は、勉強机が、僕の一番大切なものだったのであろう。

 聞こえてきたのは父の叫び声。
 「こらー!何しとるんや!はよ、机の下に隠れんかー!」
 その声で、守っていた机に、守られるように、机の下に隠れた。
 僕の部屋は2階。父の寝室は1階。
 すごい揺れの中、父は、階段を上ってきてくれて、僕らのを見に来てくれたのだ。
 当時、言葉では何も表現しない父だったが、僕ら子供達のことをとても大切に思っていてくれたのだと、今、ふと、気付いた。

 父は西宮出身で、実家も西宮、神戸や西宮に友達も多く、すぐに、震源地に向かった。
 西宮の父の実家は、幸い、全壊は免れたが、2階建ての家の1階から空が見えるような状況で、僕の祖父と叔父と従姉妹は、まもなく、仮設住宅に入居することになった。
 父は、実家の裏の全壊したお宅から、僕も可愛がってもらったおばあちゃんの遺体を引き上げたり、神戸の自転車屋をしている友人の看板を作ったりと、大活躍だった。

 そんなことを思い出して、父に電話をしてみた。父にとっては、どのような体験だったのか聞きたくなったからだ。

 電話に出たのは母。「お父さん、連日仕事が入っていて、今日は疲れたって寝ちゃったよ。」とのことだった。「震災のこと何か言ってた?」と聞いてみたら、「それどころじゃないくらい、疲れてるみたいやったわ。テレビでは一日中、震災のことを言ってたけれどね。」と。

 残念ながら、父の話は聞けなかったが、母の元気な声が聞けた。

 テレビといえば、僕自身は、テレビで震災を体験したようなものだ。

 僕の被害といえば、机を押さえてたときに、机の本棚に置いてあったステレオのスピーカーが、右手の人差し指に落ちてきて、右手が1週間使えなかったことくらい。2次試験に向けて焦っていたが、家の被害も少なく、受験勉強の打ち込めた。

 だから、食事の時に見るテレビの映像が震災のことを僕に教えてくれた。

 センター試験があった神戸の壊れた町並み、試験が終わって、友人と羽を伸ばすために降り立った三宮駅の壊れっぷり。それを映像としてしか、経験できなかった。記憶から薄れていくのは、そのような映画のような印象しかないからかもしれない。

 いや、そう言えば、2次試験に見事に落ちて、三宮の予備校に通っていたのだった。僕が通う頃の4月は、復旧はまだまだだったが、三宮駅や、そこから予備校までの道のりは、日常を取り戻していた。僕自身は、2年も浪人はできないと勉強に打ち込みつつ、気になる女の子にわからないところを質問することで話しかけたりと、自分のことしか考えられない時期だったように思う。このような状況だったから、震災のことが印象に残ってないのだろうか。

 だが、「苦しい経験をすると強くなれる」、少なくとも強くなれる可能性があると思えたのは、このときだった。我らが神戸校が全国展開をするその予備校グループの系列校の中で、最もよい平均点を出していたのだ。

 「震災に負けないぞ。」と友人と喋ったのを今思い出した。

 今も、日々、睡眠不足と闘っているが、強くなれると信じて、この状況をうまく生きていきたい。

 まずはタイムマネジメントの技術を磨いて、睡眠時間を確保しなくては!

1 件のコメント:

岡田 唯男 / Tadao Okada, MD, MPH, DABFM, FAAFP さんのコメント...

そうか、はっちさんも加古川でしたね。でも当時高校3年生とは。。。年の差を感じます。
そういう年代の人たちが頼れるようになってきてるのは頼もしいことです。